平和のバラ


バラを心から楽しめるのは、

命と健康、日々の暮らしの安全・安心が守られてこそ

そしてなにより世界の平和が守られてこそ

 

平和に、安全安心に暮らせますように 

「ピース」平塚市総合公園 2022年12月11日撮影
「ピース」平塚市総合公園 2022年12月11日撮影

 

↗1935年に仏メイアン社フランシス・メイアン氏により作出された当時の名は「マダム・アントワーヌ・メイアン」。それがどうして「ピース」と呼ばれるようになったのか、中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンターHP 「ばらの来た道」→「14. 名花ピース」にてくわしくご紹介してくだっっています(「ばらの来た道、ピース」でネット検索してください)。

 

以下は、主にWilipediaからの引用です。

  ↓

 「ナチス・ドイツの侵攻下、メイアン氏から芽つぎ用の小枝を送られていた米園芸製品会社のロバート・パイル氏は、45年、ベルリン陥落を記念して「ピース」と命名して発売。

 同年、国際連合の初集会に同氏は本品種を持参し、『このバラ、ピースはベルリン陥落の日パサデナで開かれた太平洋バラ協会展でかく名付けられた。われわれはこの平和のバラが人々の胸に世界平和を永久に印象づけることを希望する』との言葉を贈ったという。

 彼は参加49カ国の各国代表の部屋にこの言葉と共に本品種を1輪ずつ届けた。

 この品種が日本に入ったのは1949年であった。その前年、後に日本を代表するバラ育成家となった鈴木省三は空襲で焼け残った東京のビルの一角でバラ展を開催した。これは平和を取り戻した象徴として新聞紙上でも、更に進駐軍の新聞にも取り上げられた。この展示会にサンフランシスコバラ会の会員が来訪、会場のバラを賞賛した後に「残念なことにここにはピースがない」と述べ、来年にはその花を届けることを約束、そして翌年、まだ民間の航空輸送がない中で、彼はこの品種を軍の輸送機によって日本にもたらし、バラ展に届けた。多くの人間がこれを後年まで語り継いだという[6]。当時、繊細な花色と、それに花も葉も一回り大きく、それまで知られていたバラとはまるで違うとして大人気を博した。当時の大卒銀行員の初任給が3000円だったのに対し、本品種は1本で6000-10000円で発売されたという」

(Wikipedia「ピース」ページへ 2023年8月14日閲覧)

 

 

1945年の敗戦から78年。

日本にも、戦後の悲惨な体験から、平和への願いを込めて命名されたバラがあります。

 

「のぞみ」1968年 小野寺透氏作出

 

名のいわれは、ニッポン放送 NEWS ONLINE HPより、8月9日付記事

「絵本『バラになったのぞみ たった1人で満州に残された女児の『戦争の実話』」をご覧ください。

 

小野寺氏のご子息 小野寺達(いたる)氏のブログ「東松山聖ルカ教会の牧師館から」より、2022年12月5日ご投稿「『バラになったのぞみ』のこと」 もぜひお読みください。 

 

「Japanese Roses, " Nozomi Family etc.," at Bonsai Style at the show of Fujisawa Rose Society 藤沢バラ会展示 2015」      

YouTube拙チャンネル beeofmepoch21    2015年11月19日投稿

 2015年5月に花菜ガーデンで開かれた藤沢バラ会 春のバラ展示より、「のぞみファミリー」はじめ、同会会員の方々が育てられ、あるいは育種された盆栽風に仕立てられた鉢バラのご紹介です



「花はどこへ行った」

 

ピート・シーガー(1919 - 2014)作詞作曲

        (歌詞はジョー・ヒッカ―ソンとの共作)

Kennedy Center Honors YouTubeチャンネル

                2013年12月19日ご投稿 

Where Have All The Flowers Gone (Pete Seeger Tribute) - Joan Baez - 1994 Kennedy Center Honors

「花はどこへ行った」(ピート・シーガーを讃えて)

 ジョーン・バエズ 1994年 ケネディ・センター名誉賞授賞式にて

 

      「花はどこへ行った

         Where have all the flowers gone?」

 

 加藤登紀子YouTubeチャンネル 2022年3月18日ご投稿をシェアさせていただきます